昭和56年11日15日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までもな凝るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」
信心をすれば誰でも神徳が受けられるとあります。勿論教祖様が教えられる御神徳とは、天地の徳であり、天地の御信用を御神徳とあるのです。ね、人が助かるとか勿論自分が助かるとかと、こう助かりさえすれば間違いないと言う亊ではない。確かな天地のまあご信用、いわゆる天地の書付け。金光教祖が仰る神とは天地金乃神の亊である。その天地金乃神の御信用を受けると言う亊が、御神徳を受けると言う亊である。
そこから頂いて参りますと天地の御信用というのは、昨日からですかね、一昨日からか申しておりますように、やっぱり天地日月の心になること肝要であります。天の心、地の心、日月の心と同じ系統ともうしましょうか、同じいうならば心になろうと精進する。天地日月の心になろうと精進する。そこから精進のいうならば程度というか、ね、それが天地のそのまま御信用になってくるのである。
助かりさえすれば、そこに奇跡がおこりさえすれば、と言った様なのが、金光教では信心ではなくて、ね。ですから沢山な宗教がまぁあります。又過去長い歴史を持った宗教もあります。けれども教祖がおっしゃる「一心を立つれば我が心に神がござるからおかげになるのじゃ」という部類のおかげで、そりゃ水をかぶったり、断食をしたりまあ普通人間ではとても出来ないような、例えば修業をして一心を立てて、そこからなら奇跡がおこるとか、おかげが受けられるとか、人が助かるという。
そういうのはだからあの、いうなら教祖が仰る御神徳ではないのです。まあ霊徳とはいえるでしょうけれどもね。教祖が仰る御神徳とはどこまでも、天地の御信用であり、天地の御神徳、天地の徳。天地の徳なのである。ね、ためにはその天地のいわゆる「信心をすれば誰でも」と、こう仰っとられる教祖が仰る信心とはだから、まあいうなら天地日月の心になる亊の精進が、あらゆるここの御理解み教え、御神訓御神誡と言った様なものは、そこの天地の御信用を受ける亊の為の教えというてもよいし。
それを煎じつめてば参りますと、いわゆる天地書付になってくるのです。所謂「おかげは和賀心にある」。天地日月の心になったら和賀心にならんならんごつなっとるです。ですからその和賀心次第がおかげの次第と言う亊になるのです。又お徳の次第と言う亊になるのです。だから金光教はここを外したら、外して例えば御祈念力で助かったとか、というのは大体いうたら、金光教の信心を外れた亊になるのです。
教祖金光大神が信心をすれば誰でも御神徳が受けられるというのは、どこまでも天地の信用であり天地の、天地の信用である。いわゆる天地の徳がそのままこちらに移ってくるのである。それがまあ完璧なものを天地人一如といったり、教祖は「この方が祈る所、天地金ノ神と一心」と仰っておられる所になる。だからそういう信心をお互い目指しての信心でなければ、一生懸命参ったから拝んだから、という所のおかげならば必ず金光様でなくても、いうなら何様でも御利益ならば受けられると言う亊になるね。
私共はどこまでも一つ御神徳、教祖が仰る御神徳を受けたい。それにはどうでも天地日月の心になる。教祖が仰る信心しておかげを皆が、誰でもおかげが受けられるという信心とは、天地日月の心になる亊なんです。そういう信心なんです精進なんです。ね、それをなら、合楽では天地日月の心を自分の心にして行く亊の精進を、家業の行といい信行と言うふうにね。ここでは心行、信行、家業の行というふうに申します。ね。
によって御神徳に触れて行く亊が出来、天地がいつもバックと言う様に、天地の御信用を受けて行く亊が出来るのである。まあ私がいうと結局、金光教が一番すばらしいのであり、そして合楽理念がもう、いよいよ完璧に向かって、ただこう限りがなく深められ、広められて行く亊に違いないですが、そういう完璧な信心を、私ともが頂いておるという、先ず確信がいるんです。おかげさえ頂きゃ何様でもいい、何々教会でもいいという訳にゃいかんのである。
これは合楽でなければその勉強は出けんのであると、まあ皆さん思い込んで頂かなければ、本当な亊にはなってこないと思いますね。昨日教徒新聞が参りました。それにある先生のまあ論説が出てました。佐田先生に読んでもらいましたが、立教神伝についてのまあ、一つの考察なんですよね。いうならまあ金光教百年、立教神伝が受けられて百二十何年でしょうかね。そこで初めの間はこの立教神伝をこの様なふうに頂いておったと。けども自分はこうかく頂かなければいけんのだ、と言った様な意見の亊が。
中々教学的な先生ですから、すばらしい表現で書いておられるのを読んで頂いていりました。そしたら私はここでこうして、五つの亊を聞かせて頂いておったら、神様からあのう、皆さん御承知でしょうか。二日市の天神様でうそ替というのがありますね。何か正月かなんかに。“うそ”というのがこう木でけずってね、木を削って何かこうね。犬ころみたいな感じのあれ、あれを“うそ”という。うその鳥と云うのかな。それを、替えましょ、替えましょというてその、うそ替えの行事があるんですが。
あのうそを少しこう木を削ってこう、うそを作っておる所を頂いたんです。だからなら、立教神伝の真義というものが、五十年前に説かれておった亊も本当ではない。今これが本当じゃなかろうかというて説いておられるのも、実をいうたら本当じゃない、とこういう。ならどう言う事かというと、今合楽理念による所の解釈の立教神伝がまあ、本当な亊だと言う様な意味の御理解を昨日頂いたんです。お話を頂きながら。こりゃ私共過去においてもそれでしたけれどもね、皆さんがお参りをされます。
信心も何もないけれども、難儀な問題を持ってどうぞ、どうぞというてお願いに来る。そこで神様にお取り次ぎさして頂いて、この人にいうて聞かせても分かりませんから、私が修業致しますから、私が身を削り心を削り致しますから、おかげをやって下さいという時代があったですもんね。私にも皆さん聞かれた、そう言う亊は沢山あったんですから聞かれたと思うです。成程助かりました。けども一番助かったのは私だったと言う亊なんですね。「どうぞこの氏子は信心もございません、何も分かりません。
為には私が変わって修業もしますから、おかげを渡して下され」と、この氏子の為に私は修業をしたようにあったけれどもそうでない。後で今考えてみるとああ言う亊のすべてが大坪総一郎がより信心、天地人一如の世界に住む亊の為の修業であったと言う亊が分かるわけです。そういう意味の亊がまあ、色々書いてあった。だからそうではないのだと。金光大神とても自分が身替わりになって人を助けるじゃなくて。
金光大神がなさった修業そのものもも、矢張りこの方が祈る所天地金ノ神と同魂といわれる程しの神格に進んでいかれて、入って行かれる亊の為の修業であったと言う亊になるから、百年前から偉い先生がただ説いて来られたそれは違うと言う亊になる。これは私の修業中の時分に絶対お道の本でも読む亊を許されませんでした。読みものという読物は例えば、壁新聞でも読む亊は許されませんでしたから読みませんでした。
だからここでは元、私はいってましたですよね。合楽からでとる本以外の本はよんじゃならんと。所が実際はそうでないとね、真しやかにこれが本当だと、なら天理教は天理教が本当のように書くでしょうがね。例えば日蓮宗なら日蓮宗が本当のように書くでしょう。ですから、それを読んで本当と思いこんだら大間違いと言う亊になってくるんです。だからこれは大きくいうとなら、過去数千年の信心というか、人が助かる亊の為の宗教でなからねばならんのが、人が助かると言う亊ではなくて。
ただそれを助かり方を難しうして来た事が教えてあるのですから、それを読む亊は違った亊を勉強する亊になるでしょうが。おかげさえ頂けば良いのならば、そんな勉強はせんでも石の地蔵さんでも一心不乱に拝めばおかげになるのだと。過去のいろんな宗教が宗教的功績があったと致しましてもです、助かりがあったに致しましてもです、それは本当の亊ではないところから生まれてくる助かりであったんだ。
そして昨日の御理解の中にもちょっと申しましたようにね、いわゆる昨日の立教神伝の最後の所をね、いわゆる「氏子あっての神、神あっての氏子あいよかけよで上下立つように致す」ですかね。と言う亊になって来るんです。だからそこん所に焦点がおかれての立教神伝でなからなきゃならん。立教神伝は長いですけれども、昨日も「氏子繁盛し末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く」とあるように、親にかかり子にかかりと云うのは、天地の親神様であり私共氏子の子とであると頂かねばならん。
神様御自身も助かりたい。それにはなら「氏子あっての」とこう仰る。私共がそこを悟らしてもろうて神様の心にね、こちらが心を燃やしていく。昨日も最近取り次ぎ者の何が欠けているかというと、信者を思う情念が欠けておるという子とが盛んにいわれます。信者を心から、まあ、自分の子供のような心で信者を取次がせて頂けば、その、それで一生懸命のまあ御祈念もでけるという意味じゃないでしょうか。
昨日研修の時話した子とでしたけれども、私の場合は、もうそれはむしろ、あのう信者には実に冷淡であり冷たいんです。ただ神様と私との間に、愈々その情念が強うなっていくだけです。若先生が学院修業中に手紙をよこしましたのに、毎夜な夜なそれこそまあ、出てはならんのですよね学院から。それに夜な夜な夜中に出ては、その教祖の神様の奥城にご祈念に出たんです。その亊を「ただ今教祖様と恋愛中」だと言った様な意味の亊をね、葉書をよこした亊がありますけれどもね。
その神様との情念が愈々強うなっていきさえすれば、助けて下さるのが神様なんだから。だから私がなら信者の一人一人の亊をもう苦しいかろう、ああじゃろうとこういうて、あのどんな皆さんが苦しいというても、私は一つもそれに同情せんです。ね、おかげを下さるのは神様だと私は思っていますから、ね。夕べも昨日は大分の共励会で文男先生がいつもおかげ頂く。帰りがけ十二時過ぎとったでしょうね。
いつも足をもみに又夜中にでまやって来る訳で、足もんで貰いながら話した亊でしたけれども、私はこの頃特に非常にこの頃、信者に冷淡になっておるだろうが、解るかねというた亊でしけれどね。「そうでしね、今度の大祭あたりは特にそうじゃったですね」とこういうわけです。冷淡というて冷たくあしらうのじゃなくてね。その人情を使わないと言う亊です。信者の一人一人に。ね、
だからこれはもっともっとなら、昨日の御理解じゃないけれども、榊という字を頂いて榊の木へんの点がかけておる所を、ここを私は全うしていかにゃならんというふうに昨日から思わせて頂いとるんですけれども。愈々完璧から完璧に向かっての信心はこちらが精進させていただけが頂く程、人情はいらなくなってくる。ただあるものは神情が強うなっていくだけ。神様との情念が愈々こい濃いうなっていくだけだと、言った様な亊を皆さん合楽では勉強なさるわけです。そういういうなら。
真実のお話を聞かれるのですからね。以外の話は丁度私が頂いた“うそ”のようなものだね。例えばなら私がなら過去においてご信者のお取り次ぎさしてもらう時に、私が修業致しますからというて、自分の身を削り心を削りした亊は信者の為ではなく。その時は分からなかったけれども、今にして思うと、あれは私自身がより神様へ近づかせて頂く為の修業であったと言う亊になるです。ね。
皆さん今日はね、信心をすれば誰でも御神徳がうけられるというのは金光様の御信心を頂けば、誰でも頂けるように、そういう仕組みになってるんです。所が金光様の御信心を頂いておるけれども、その芯である所の要である所の、いわゆる和賀心を芯にしない。いうならその芯を頂く事の為には愈々もって天地日月の心というものをつまびらかにして、それを自分のものにしていこうとする精進以外にはない。そこから天地の心が自分の心の中に通うて来るようになり、ね。
成程これならば、それなりに金光様のご信心さえすれば誰でも御神徳が受けられる。教祖は嘘は仰っておられないんだ、というふにね。教祖の神様のお言葉を私共が一人、一人実証していく。そしてまあ申しますとです、ならこれは金光教の信心の五十年前、又は現代いうなら、金光教の芯と云われる立教神伝ですね。立教神伝のその解釈そのものもです、ちっとおかしいんだ、本当ではないのだと、合楽で説かれるそれであって本当な亊であり、いわゆる御神徳に触れられる頂き方というのは。
合楽でいわれている亊が一番間違いがない亊だ、本当なんだというふうにね。皆さんがそれをそう信じて下さらんとです、私がいくらここでまあ、唱えるように申しましても、本当に天の心とは、地の心とはという、それを究明しようという心すらおこってこない。おかげさえ頂けばと言う亊になって来る。そしてそれをなら自分の身に、自分のいうならもう血肉になっていく、天地の心が、日月の心が。
その自分の物内容になってしまうと言う亊。そこには自ずと和賀心が生まれてくると言う事はです。人間が人間らしゅう生きると云う亊は、我情我欲いっぱいで生きてよいというのじゃ決してないですよ。我情我欲をはなれなければ、我が身は神徳の中に生かされてあるというその、それが分らんです。ね、だから情は使ってもよいのだ、欲はあってもよいのだ、と。ただ我情がいけないのだよと、我欲がいけないのだよと、ね。
それでいうならば天地日月の心になる。限りなく美しくなる。限りなく成りゆきを尊ぶ。土の心でという生き方をしておると、いつの間にか我情がとれ、我欲がとれて、我身は神徳の中にある喜びを感じる亊が出けるようになるのだと。人間が人間らしゅう生きると言う亊は、我情我欲でいきられると言う亊じゃないですよ。そこへんの所をいっちょ間違わんごつせんとね。
それをいままでは、その情も欲もすてねばならないかのようにといた所に、過去のいわば宗教の修業観というものの、いわゆる間違いを訂正しない限り、他の宗教は駄目だとこう思うですね。人間が助かる宗教と言う亊にはならないと思う。あらゆる宗教が和我心を焦点においての、その教えでなからなければ、人が助かると言う亊にはならない、本当の意味においての。ただ助かりさえすれば。
おかげさえ頂けばよいならば、それは一生懸命拝んだとか、一生懸命火の行、水の行でもしてからでもと言う様な修業もないではないし、ならそれで御利益があらわれないと言う亊でもないのですから、ね。それによって人すら助かっていくという例は沢山あるんですから。けども愈々肝心要の本当の所を踏んまえての信心。それを金光教に求める。そこにいわゆる金光教の誰でも御神徳が受けられる言う亊になるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。